日心会は坂東武者の末裔として、その魂を引き継いでいます。坂東(坂東八箇国または関八州)とは、現在の関東1都6県とほとんど同じ地域を指します。
この地はかつては大和朝廷による支配の東の果てであったので、「坂東」は広くは奥州も含む東国の意味でも用いられます。
坂東武者(あるいは坂東武士)は、この地で活躍した強者たち、武骨で頼もしく、命よりも名を惜しんだ武士たちです。女子(おなご)も例外ではありませんでした。
平安京に都をさだめる(794年)直前、桓武天皇は、それまでの農民を徴兵する軍隊にかわり、郡司の子弟を常備軍として組織しまた。これを「健児(こんでい)制」といいます。蝦夷(えぞ・えみし)との戦いがまだ継続していた坂東の地では、領主や豪族は軍隊や警察のために、さらに多くの強者を組織したので、健児団は武士の集団へと成長しました。天皇の血筋につながる人物もこの武士団に加わりました。桓武平氏や清和源氏などの大武士団も現れました。
桓武天皇の血を引く高望王は臣籍に降下して平高望と名乗り、国司として赴任した上総国で武士団の勢力を拡大しました。平将門(903年?-940年)はその孫ですが、父の死をきっかけに相続争いをし、925年叔父である平国香を殺害して禁獄、いったんは許されます。
しかし、平貞盛ら親族との対立は続きます。
彼は下総・猿島(さしま)郡で自分の武士団を組織する一方、重税を課す国司の横暴から農民を守り、原野を開墾して農地を拡げ、鉄製の農具を普及させるなどし、農民たちから敬愛されていたようです。また、馬上から使いやすいように刀の刀身を反らせて、日本刀の原型を作ったのも将門だとされています。
939年、将門は常陸国司に抵抗していた武士の棟梁・藤原玄明を匿い、国司からの身柄引渡し要求を拒否し、ついには常陸の国府を占拠、国印と倉の鍵を奪ってしまいます。
これは朝廷への明らかな反逆です。
ここで将門に入れ知恵したのが、武蔵の権守(ごんのかみ・臨時の国守)として派遣されてきたが、本物の国守の着任で居る場がなくなり、将門を頼ってきていた興世王という人物です。「王」という名前から天皇に近い血筋がうかがわれますが、彼が将門を乱に引きずり込んだとも言われています。
時ニ武蔵権守興世ノ王、竊カニ將門ニ議テ云ク、「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」者。【将門記】
(現代語訳)この時武蔵権守の興世王は「一国を討っても国の咎めは軽くないでしょう。どうせ同じことなら坂東全部を攻め取った上で様子を見るのはいかがでしょうか」と言った。
平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃、国司を追放して代わりに自分の仲間を任命しました。東国の独立をもくろみ、「新皇」と名乗ります。政権の根拠として、八幡大菩薩から天皇に任命されたと語ったともいわれます。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し鎮圧の為に派遣しますが、朝廷軍が到着する前に地元の武士、藤原秀郷と平貞盛との戦いで、戦場で流れ矢を額に受けて絶命したと伝えられます。
将門の首は京都で獄門にかけられますが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされます。落下地はいずれも平将門の首塚とされましたが、一番有名なのは東京都千代田区の首塚です。埼玉県幸手市の浄誓寺にもあります。
千代田区の神田明神、築土(つくど)神社は将門を祀っています。将門は弱い農民たちの味方であったという伝説から参拝者も絶えないが、朝廷への反逆者でもあったので、明治時代には朝敵とされて両神社の祭祀も制約されました。また将門の怨霊やたたり、彼が実は菅原道真の生れ変りである、などの言伝えも数多くあります。