前九年の役から約100年後、源義家がつくりだした源氏の人気にも衰えが見え始めまたころ、源氏武士団の内部に大きな争いが発生しました。
義家の息子である源為義(ためよし)、さらにその長男・源義朝(よしとも)と源氏の嫡流は続くのですが、この為義と義朝の親子間で争いが起こったのです。
このころの義朝は鎌倉・亀ヶ谷に本拠を構えて南関東に堅固な地盤を築きました。為義は次男・義賢(よしかた)を北関東に向かわせ、義朝に対抗させようとしました。義賢は武蔵国の大武士団の棟梁である秩父重隆の娘婿となり、大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)に館を構えます。
しかし、1155年、義朝の長男である悪源太義平(源義平、このとき15才)は、父の命令を受けて大蔵の館を急襲し、義賢と秩父重隆を討ち取ってしまいます。(悪源太というのは「勇猛な源氏の長男」という意味です。)
この時、源義賢の子で2歳の駒王丸については、義平が殺せと命じていたのですが、斎藤実盛(さねもり)のはからいで、木曾の中原兼遠のもとに預けられました。斎藤実盛は武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)の別当(べっとう、荘官【しょうかん】)であり、平家物語では長井斎藤別当実盛(ながいのさいとうべっとうさねもり)と呼ばれます。
『源平盛衰記』では、「斎藤別当情けあり」と実盛を褒めたたえています。彼は義朝・義平親子に従っていたものの、直前まで義賢にも伺候していたこともあり、駒王丸に同情的だったのです。
この駒王丸こそ、のちの木曽義仲(きそよしなか・源義仲)でした。斎藤実盛はこのとき44歳でした。
まもなく保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)がおこります。この2つの乱では、実盛は一貫して源義朝方につきました。
平治の乱では敗れた義朝とともに、実盛は小勢となって逃げていましたが、比叡山の僧兵150人ほどにさえぎられ絶体絶命の状況となります。ここで実盛は僧兵の前で兜(かぶと)を脱いで「われわれは小物ばかりで、命が惜しいだけ。武具を差し出すので命はたすけてほしい」と申入れ、手に持っていた兜を僧兵たちに放り投げると、僧兵たちはその兜を取り合って混乱します。実盛は、すかさずこの甲を奪い返して、馬にのり太刀を抜いて「日本一の剛の武士、長井斎藤別当実盛とは我がことぞ。我と思わん者は寄り合えや、勝負せん」と言い放ち、さっと通り抜けました。僧兵たちが動転しているすきに、義朝以下の全員が通り抜けることができました。
2つの乱では、最終的には平清盛が勝者となります。義朝の嫡男・悪源太義平(19才)は処刑され、義朝(38才)も逃亡中に殺されました。
しかし出家していた清盛は、年若い頼朝や幼児であった義経らを助命します。
源氏壊滅ともいえる状況を目の当たりにして、斎藤実盛ら多くの坂東武者は、平家に従うようになります。
約20年に亘って「平家にあらずんば人に非ず」の時代が到来しました。平家はだんだん専横的になり、後白河法皇と対立、1179年クーデターをによって後白河法皇の院政を停止させてしまいます。
1180年、平家一族の専横に耐えかねた後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨が全国の源氏あてに出されます。
義朝の三男・源頼朝が伊豆で挙兵、石橋山の戦いで敗れたもののすぐに巻き返し、10月には駿河・富士川の戦いで平維盛(これもり)の率いる平家の大軍を潰走させます。しかし、まだ坂東の支配が固まらず、京都にはすぐに攻め上れませんでした。
これらの戦いでは、斎藤実盛は平家方の武士として参加しています。
木曾義仲も同じ年に挙兵します。横田河原の戦いで平家軍を退けました。続いて北陸に進出、1183年5月には倶利伽羅峠(くりからとうげ、石川県河北郡津幡町)の戦いで、平維盛が率いる10万の平家軍を壊滅させます。松明に火をつけた牛を一斉に平家軍の中に追い込み、これにより平家将兵は断崖から蹴落とされたのです。
さらに平家軍を追走した義仲は、篠原(石川県加賀市)の戦いにおいて再び勝利を収めました。
木曾義仲も同じ年に挙兵します。横田河原の戦いで平家軍を退けました。続いて北陸に進出、1183年5月には倶利伽羅峠(くりからとうげ、石川県河北郡津幡町)の戦いで、平維盛が率いる10万の平家軍を壊滅させます。松明に火をつけた牛を一斉に平家軍の中に追い込み、これにより平家将兵は断崖から蹴落とされたのです。
さらに平家軍を追走した義仲は、篠原(石川県加賀市)の戦いにおいて再び勝利を収めました。
この篠原の戦いでは、逃げる平家の中にあって1騎踏みとどまり、手塚太郎光盛と戦い討ち死にした武将がいました。この武者は手塚が名乗りを上げても、「自分の素性は木曾殿(義仲)に首を見せれば分かる」とだけ答えました。義仲がその首をに見ると、命の恩人である斎藤別当実盛によく似ています。しかし、それにしては年齢が若すぎると義仲はいぶかりました。
樋口は古き同僚、見知りたるらんとて召されたり。髻(もとどり)を取り引き仰けて、一目打見てはらはらと泣き「あな無慙や実盛にて候けり」と申す。「何に鬢鬚(しゅぜん)の黒きは」と問ひ給へば、樋口「されば其の事思ひ出られはべり。実盛、日ごろ申しおき候らひしは、『弓矢取る者は、老体にて軍(いくさ)の陣に向はんには、髪に墨を塗らんと思ふなり。其の故は、合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪を見てあなづる心あり。いわんや軍場(いくさば)にして、進まんとすれば、古老は気なしと悪(にく)み、退く時は分に叶わずと謗り、実に若人と先を争うもはばかりあり。敵も甲斐なき者に思へり』」年来、内外なく申せし事の哀さに、樋口、水を取寄せて自ずから是(首)を洗ひたれば、白髪尉(老人)にぞ成りにける。【源平盛衰記】
実盛の昔の同僚の樋口次郎兼光が、髪を洗うと白髪が現れました。戦場で若い武者にあなどられたくないと髪やヒゲを黒く染めていたのです。義仲は、命の恩人を敵として討たねばならない戦乱の無情を嘆いたと伝えられています。このとき実盛は72歳でした。(2歳の子が実盛の顔を記憶しているはずはないので、中原兼遠に預けた後で、実盛は何度か幼少の義仲を訪ねているのだ思われます。)
埼玉県熊谷市(かつて武蔵国長井)にある妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)は斎藤実盛の館跡で、この寺院も実盛が開祖とされています。
平家物語には、富士川の戦いでは、坂東武者の勇猛についての平維盛に問われた斉藤実盛の話が、水鳥の羽音に驚いての平家軍の潰走に繋がったという記述があります。
大将軍権亮少将維盛、坂東の案内者とて長井斎藤別当実盛を召して、
「やや実盛、汝ほどの射手八箇国にいかほどあるぞ」
と問ひ給へば、斎藤別当嘲笑ひて、
「さ候へば君は実盛を大矢と思し召され候ふにこそ。僅かに十三束こそ仕り候へ。実盛ほど射候ふ者は八箇国に幾らも候ふ。坂東に大矢と申す定の者の十五束に劣つて引くは候はず。弓の強さもしたたかなる者五六人して張り候ふ。かやうの精兵共が射候へば鎧の二三両は容易う懸けて射通し候ふなり。
大名一人して五百騎に劣つて持つは候はず。
馬に乗つて落つる道を知らず悪所を馳せれど馬を倒さず。
軍はまた親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。
甲斐信濃の源氏等案内は知りたり。富士の裾より搦手へも廻り候はんずらん」
と申しければ、これを聞く兵共皆震ひ戦慄き合へり。
その夜の夜半ばかり、富士の沼に幾らもありける水鳥共が、何にかは驚きたりけん、一度にはつと立ちける 。
羽音の雷大風などのやうに聞えければ、平家の兵共、
「あはや源氏の大勢の向こうたるは、昨日斎藤別当が申しつるやうに、甲斐信濃の裾より搦手へや廻り候ふらん 。取り籠められては敵ふまじ。此処を落ちて尾張川洲俣を防げや」
とて取る物も取り敢へず我先にとぞ落ち行きける。
あまりに周章て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、 我が馬は人に乗られ、人の馬には我れ乗り、或いは繋いだる馬に乗つて馳すれば、杭を繞る事、腹踏み折る限りなし。
【平家物語】
(現代語訳)大将軍権亮少将・維盛(これもり)殿は、坂東に通じている者として長井別当・斎藤実盛を召して、
「実盛よ、そちほどの射手は関東八か国にどのくらいいるのか」
とご下問になると、実盛は大笑いし、
「ということは、殿はこの実盛を大矢使いとお思いなのですね。
私が使っているのはわずか13束です。私程度の弓使いは関東8箇国にはいくらでもおります。 坂東で大矢使いと言われる者なら、15束より短い弓は引きません。 屈強な者たちによる5~6人張りの強い弓を使います。 このような精兵たちならば、鎧の2、3両はたやすく射貫いてしまいます
大名ならば一人で500騎以上は持っております。
馬に乗れば落ちることを知らず、悪所を馳けても馬を転ばしません。
合戦となれば親さえ討たれ、子さえも討たれ、死屍累々の山を乗り越えて戦います。
甲斐・信濃の源氏らは地勢をよく知っております。
富士の裾野から背後へ回り、攻めてくるでしょう」
と言うと、これを聞いた兵たちは、皆震えおののき合った。
その夜半、富士の沼にたくさんいた水鳥たちが何に驚いたのか、一斉にばっと飛び立った。
羽音が雷か大風などのように聞こえたので、平家の兵たちは、
「たいへんだ、源氏の大軍が攻めてくる。昨日、斎藤実盛が言っていたように、甲斐・信濃の勢が裾から背後へ回ってきたのだ。
取り囲まれては敵わない。ここを逃れて尾張川の墨俣で防戦しよう」
と、取る物も取りあえず、我先にと落ち延びていった。
あまりに慌て騒いで、弓を取る者は矢を忘れ、矢を取る者は弓を忘れた。自分の馬は人に乗られ、人の馬には自分が乗って、あるいは繋いだ馬に跨って走り出し、杭の周囲をぐるぐると際限もなく回っていた。
維盛や実盛は、この結果をどう受け止めたのでしょうか?
木曾義仲と平家による篠原の戦いの直前には、平治の乱のあと平家に寄力してきたものの、源氏が盛り返しているので再度戻ろうかと、逡巡する武者たちもいました。
長井斎藤別当が許に寄り合ひたりける日、実盛申しけるは、「つらつらこの世の中の有様を見るに、源氏の方はいよいよ強く、平家の御方は負色に見えさせ給ひて候ふ。いざ、各木曾殿へ参らう」と云ひければ、
皆「さんなう」とぞ同じける。
次の日また浮巣三郎が許に寄り合ひたりける時、斎藤別当「さても昨日実盛申しし事はいかに各」と云ひければ、
その中に俣野五郎景久進み出でて申しけるは、「さすが我等は東国では皆人に知られて名ある者でこそあれ、由付けて彼方へ参り此方へ参らん事は見苦しかるべし。人をば知り参らせず、景久に於いては今度平家の御方で討死せんと思ひ切つて候ふぞ」と云ひければ、斎藤別当、嘲笑つて
「まことには各御心共を、がな引かんとてこそ申したれ。実盛も今度討死せんと思ひ切つて候ふぞ。その上、そのやうをば大臣殿へも申し上げ、人々にも云ひ置きて候ふぞ。」と云ひければ、またこの儀にぞ同じける。
その約束を違へじとや、当座にありける二十余人の侍共も、今度北国にて皆死けるこそ無慙なれ【平家物語】
(現代語訳)まず長井の斎藤別当のところに集まった日、実盛が
「世間の様子をあれこれ見ていると、源氏がますます強くなり、平家は敗色が濃くなっているように見える。みんなで、義仲殿のところへ行くか」
と言うと、
皆も「それがよさそうだな」と同調した。
次の日また浮巣重親(うきすしげちか)のもとに寄り合ったとき、斎藤実盛が「ところで昨日自分が言ったこと、みんなはどう思う」と言うと、
中にいた俣野景久(またのかげひさ)が進み出て
「さすがに我らは東国では名の知られた人間だ。情勢によって、あっちについたりこっちについたりするのは見苦しいだろう。みんなはどう思っているかわからないが、おれに限っては、今回平家の味方になって討ち死にしようと決めている」
と言うと、
斎藤実盛は大笑いし 「実を言うとな、みんながどう思っているか知りたくて、鎌をかけてみただけだ。おれも今回討ち死にしようと決めている。しかも、そのつもりであることを宗盛殿にも申し上げ、他の者たちにも言い置いてある」と言うと、またこの意見に同調した。
その約束を違えまいとしてか、この座にいた二十余人の侍たちが、今回北国で皆死んでしまったのは痛ましい。
実盛は大将である平宗盛を訪ねて、「今回は討ち死にするつもりです。もともと越前の生まれですので、故郷に飾るために錦の直垂(ひたたれ・鎧の下の衣服)を着させてください」と願い出て、許されています。