以仁王(もちひとおう)の令旨に応じた諸国の源氏の中で、平家を追い落として京都に一番先に入ったのは木曾義仲でした。1183年8月のことです。しかし、山奥育ちの義仲は、治安や食糧調達を巡って公家や皇族とトラブルを起こし、ついに後白河法皇は義仲追討令を発します。頼朝はこれに応じ、義経・範頼の率いる大軍を京都に送ります。義仲は宇治川の戦いで敗れ、1184年1月20日、北陸に逃げる途中の近江国粟津(滋賀県大津市晴嵐2丁目)で討死します。
宇治川の戦いでは、義仲を守って一人の女武者が活躍しました。義仲の愛妾・巴(ともえ)御前です。色白で長い髪の美女である彼女は、荒馬「春風」に乗り、人一倍派手な鎧を着て、大弓と大太刀を武器にして戦い、最後は東国へ落ちていったと伝えられています。
義仲を滅ぼした義経の軍は、休む暇なく平家との戦いに入り、2月7日、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一の谷の平家本陣を奇襲しました。
熊谷次郎直実は武蔵・熊谷郷(埼玉県・熊谷市)生まれの武士です。父直貞の代に熊谷郷の領主となりました
鵯越(ひよどりごえ)の逆落しで有名な一ノ谷の戦いでは、平家の若武者・平敦盛(あつもり)を首を取るめぐりあわせになりました。
息子ほどの年齢の若者の命を絶ってしまった直実は、戦の非情さや世の無常を深く感じます。これがのちの出家につながります。
戦が終わったあとの直実は、鎌倉で流鏑馬の裏方(的立役)を命じられて拒否したため領地を没収され、さらに別の領地問題の訴訟に際してもうまく抗弁できず、頼朝の目前で髷を落として逐電して出家し、法然の門をくぐります。敦盛を討って以来心の平安を失っていた彼は、ただ一心に念仏さえすれば極楽往生できる、という、法然の教えに救いを見出したのです。
法然のもとでに蓮生(れんせい)と名乗り、熱心に念仏を修行し、各地に寺院を開基しました。晩年、熊谷に戻った蓮生が念仏を唱えるために建てた草庵が、熊谷寺(ゆうこくじ)の始まりと言われています。
熊谷、「あれはいかによき大将軍とこそ見参らせ候へ。
正なうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ返させ給へ」
と扇を挙げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上がらんとし給ふ処に、波打際にて押し並び、むずと組んでどうと落ち取つて、押さへて首を馘かんとて、内甲を押し仰けて見たりければ、年の齢十六七ばかりなるが薄仮粧して鉄漿黒なり。
我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なりければ何処に刀を立つべしとも覚えず。
「いかなる人にて渡らせ給ひやらん。名乗らせ給へ。助け参らせん」
と申せば。
「汝は誰そ。名乗れ聞かう」
「物その者では候はねども武蔵国の住人熊谷次郎直実」
と名乗り申す。
「汝が為にはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」
とぞ宣ひける。
熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉りたりとも、負くべき軍に勝つ事はよもあらじ。また助け奉るとも勝つ軍に負くる事もよもあらじ。我が子の小次郎が薄手負うたるをだに直実は心苦しう思ふぞかし。この殿の父討たれ給ひぬと聞き給ひてさこそは嘆き悲しび給はんずらめ。助け参らせん」
とて後ろを顧みたりければ土肥梶原五十騎ばかりで出で来たり。
(現代語訳) 熊谷は、「名のある大将軍とお見受けした。卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか。返らせよ。戻られよ。」
と扇を上げて招くと、招かれて引き返した。
渚に上がろうとしたところに、波打ち際で馬を並べ、むんずと組んでどうと落ち、取り押さえて首を刎ねようと、内兜を押し上げて見ると、薄仮粧にお歯黒を塗った十六・七歳ほどの少年であった。
我が子の直家と同じくらいの年で、実に美しい容貌であったので、どこに刀を突き立ててよいかもわからない。
「そなたはどのような御仁なのか。名乗られよ。お助けいたす」
と言うと、
「お前は誰か、名乗れ聞こう」
「物の数に入らないような者ですが、武蔵国の住人・熊谷次郎直実」
と名乗った。
「お前の手柄になるよい敵だ。名乗らなくても首を取って誰かに訊け。知っている者がいるだろう。」
と言われた。
熊谷は、「あっぱれな大将軍だ。この人ひとり討ち取ったところで、負ける戦に勝つことはないだろう。 また助けたところで、勝つ戦に負けることもあるまい。我が子の小次郎が浅手を負っただけでも自分はつらかった。この殿の父上は、我が子が討たれたと聞いたらどれほど嘆き悲しむことだろう。助けてさしあげよう」
と言って、振り向くと土肥や梶原など、五十騎ほどが出ていた。
熊谷、涙をはらはらと流いて
「あれ御覧候へ。いかにもして助け参らせん、とは存じ候へども、御方の軍兵、雲霞の如くに満ち満ちて、よも遁れ参らせ候はじ。
あはれ同じうは、直実が手に懸け奉つてこそ、後の御孝養をも仕り候はめ」
と申しければ、
「ただいかやうにも、疾う疾う首を取れ」
とぞ宣ひける。
熊谷、あまりにいとほしくて、何処に刀を立つべしとも覚えず 。目も眩れ心も消え果てて、前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば泣く泣く首をぞ馘いてける。
「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生れずば、何しに只今かかる憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉つたるものかな」
と袖を顔に押し当てさめざめとぞ泣き居たる。
首を包まんとて鎧直垂を解いて見ければ錦の袋に入れられたりける笛をぞ腰に差されたる。
「あないとほし、この暁城の内にて管絃し給ひつるはこの人々にておはしけり。当時御方に東国の勢何万騎かあるらめども軍の陣へ笛持つ人はよもあらじ。
上臈はなほも優しかりけるものを」
とてこれを取つて大将軍の御見参に入れたりければ、見る人涙を流しけり。
(現代語訳)熊谷は涙をはらはらと流して、
「あれをご覧下さい。なんとかしてお助けしたいのだが、味方の軍兵が雲霞のごとく充ち満ちて、とてもお逃がし申しあげられません。同じことなら、我が手でお討ちし、後の供養をいたします」
と言うと、
「どうでもかまわないから、早く首を取れ」
と言われた。
熊谷は、あまりにかわいそうで、どこに刀を突き立ててよいかもわからない。
目も眩み、分別もすっかり失って、前後もわからなくなってしまったが、それどころではないので、泣く泣く首を刎ねた。
「ああ、弓矢取る身ほどつらいことはない。武人の家に生まれなければ、今頃こんなつらい目に遭うことはなかったはずだ。情もかけずに、討ち申し上げた」
と袖を顔に押し当て、さめざめと泣いていた。
首を包もうと鎧直垂を解いて見ると、錦の袋に入れられた笛が腰に差してあった。
「なんということだ、今朝方、城郭の内で管弦を奏でおられていたのはこの方々だったのか。いま我らが東国の勢は何万騎もあるだろうが、戦陣に笛を持ってくる者などいないだろう。貴人とはなんとも優雅なものだ」
と、これを取って大将軍(義経殿)にお見せすると、見る人は涙を流した。
【注】平家物語のこの話は、能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽yや歌舞伎の『一谷嫩軍記』などにも伝播していきました。テレビドラマでよく織田信長が舞う「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節です。