新田義貞は、上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)に生まれました。新田荘はもともと源氏の武士団が開墾した土地です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して天皇親政に戻すことを目指しましたが、これに応じて最初に挙兵したのは楠正成です。新田義貞は幕府の命令で楠木正成追討軍に参加しましたが
1333年3月、後醍醐天皇の綸旨を受けた義貞は、幕府が派遣した楠木正成追討軍を密かに抜け出て帰国しました。
義貞は、幕府徴税使を斬って討幕の決意を固め、5月8日に討幕の兵を挙げ鎌倉攻めを開始しました。義貞軍は、小手指原(埼玉県所沢市)、さらに分倍河原(東京都府中市)の戦いで幕府軍を討ちやぶり、鎌倉に到達します。同月18日、兵を巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の3手に分けて鎌倉市中攻撃を始めましたが、幕府の守りも固く、一進一退の攻防を繰り返しました。
このとき同じ源氏の一族で、しかも主筋にあたる足利尊氏も後醍醐天皇について挙兵していました。尊氏は5月7日には京都の六波羅探題を陥落させており、新田義貞もライバル意識にかられて、鎌倉突入を急ぎました。
義貞は5月21日、稲村ヶ崎の崖下を渡るという迂回作戦に出て、鎌倉市中へ攻め入ろうとしました。
義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。【太平記・稲村崎干潟事】
(現代語訳)そこで義貞は、馬から降りて兜を脱ぎ、海上に向かって遥か遠くを伏し拝み、竜神に誓願した。「伝え聞いて居ります。日本国開闢の主、伊勢天照大神は、佛として大日如来にその身を潜め、時にそのお姿を大海原に住む竜神として現わされ、我らをお助け下さることを。我が君(後醍醐天皇)は天照大神の末裔でありながら、逆臣のために西海の波に漂うておられます。義貞は臣下としての道を尽くそうと、武器を手にし敵陣に臨んでおります。望むところは、ただ王政復古を進めて、民の暮らしを安定させることであります。
願わくば内海・外海の竜神八部、この義貞の忠義の志をお汲みになって、海水を万里の沖に退け、我ら軍勢のために道を開いてください」と、真心から祈願を行った上、自分の腰に帯びている黄金作りの太刀を抜き、海中に投げ入れた。竜神が義貞の祈願をお受けになったのか、その夜月が沈む頃、かつて干上がることなど無かった稲村崎の海が、にわかに二十余町も干上がり、遥か遠くまで砂浜が出現した。
潮の引いた稲村ヶ崎からの義貞軍の鎌倉への突入によって、追い詰められた北条高時は自刃し鎌倉幕府は滅びました。
後醍醐天皇による『建武の新政』が始まりましたが、公家たちの失政がつづきうまくいきません。
ついに1335年に足利尊氏が天皇に反旗をひるがえしたために、後醍醐天皇から足利追討の命令を受けて鎌倉に攻め下ります。しかし箱根で足利軍に押し返されて東海道を敗走、今度は京都で一進一退の攻防になります(1336年1月)。この戦いは足利軍が敗退し尊氏は九州に落ち延びます。
義貞の尊氏追撃戦は、なぜか出陣が遅れたあげく、尊氏に組する赤松円心が播磨・白幡城(兵庫県・赤穂市)で頑強な抵抗をしたために頓挫します。九州に落ち延びた尊氏は、光厳上皇から義貞追討の院宣を獲得して盛り返します。
力を蓄えた尊氏が九州から攻め上ってくると、今度は義貞軍が総崩れになります。楠正成の応援を得て湊川(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に陣を構えますが、足利軍に敗れて楠正成は自害(1336年5月)、後醍醐天皇と義貞は近江・東坂本(比叡山の麓、大津市・坂本)に逃れます。
8月15日、光厳上皇の院宣により、その弟の光明天皇が即位、いわゆる『南北朝時代』が開始されました。
新田義貞は劣勢ながらも京都奪還の攻防を継続します。しかし肝心の後醍醐天皇が義貞を裏切って足利尊氏と和睦してしまいます。天皇は激高する義貞に対し、「これは偽りの和睦だ、すでに恒良親王(つねながしんのう)に譲位し、三種の神器も渡してある」と弁明し、恒良親王と尊良親王(たかながしんのう)の身柄を委ねます。
義貞は2人の皇子を擁して越前・金ヶ崎城に立てこもりますが、飢餓に苦しめられるまでの籠城戦のあとで落城、恒良親王は自害、尊良親王は捕縛されます(1337年3月6日)。義貞はかろうじて脱出し越前・杣山城(そまやまじょう・福井県南条郡南越前町)で兵力の建て直しを図りました。
この間、南朝方についた奥州の北畠顕家が上洛を目指します。義貞の息子義興もこの軍に合流しましたが、和泉堺浦・石津(大阪府・堺市)の戦いに敗れ、顕家は討死してしまいます(1338年5月)。義貞は頼みの援軍を失いました。
それでも義貞はようやく勢いを盛り返し、自ら上洛しようと画策していた矢先の1338年閏7月2日、燈明寺畷(福井県福井市新田塚町)の戦いで討死してしまいました。
新田義貞は南北朝の動乱の混乱と無秩序の時代に生きました。彼はいったん後醍醐天皇方につくと、死ぬまで忠誠をつくしました。
足利尊氏は確かに最終的に勝利したものの、天皇に反旗を翻し、さらに兄弟や一族、部下の内紛もあり、室町幕府は最初から安定を欠いていました。後醍醐天皇や新田義貞の怨霊におびえながら、尊氏は後ろめたい生涯を送ったされます。
新田義貞はあまり政治的駆け引きがうまくなく、足利尊氏の後塵を拝したり、楠正成に讒言されたり、後醍醐天皇にも裏切られたり、歯ぎしりしたくなるような逸話も多いのですが、兎にも角にも天皇に忠誠をつくした「愚直の武将」といえます。