和田竜の小説『のぼうの城』(2007年小学館)は2011年に映画化され、大プレイクしました。この話の舞台は戦国時代、豊臣秀吉の小田原攻めのときの、小田原・北条氏の支城「忍城(おしじょう)」(埼玉県・行田市)です。
天下統一を目指す秀吉は、最後に残った小田原北条氏を滅ぼすため、小田原城を完全包囲するととともに、関東に散らばる北条方の支城にも兵を送ります。館林城と忍城には、石田三成が総大将となって2万の大軍が押し寄せます。守備兵3千の館林城はあっさり開城・降伏。忍城は守備兵わずかに5百。なんと2万対5百!降伏が当たり前の状況です。
石田三成が本陣を敷いたのは、かつての古墳である丸墓山です。「謙信めも忍城を責めた際、ここに陣を据えたというぞ」
この小説では、ふだんは「でくのぼう」をもじって「のぼう様」と呼ばれている成田長親が忍城の城代の座につき、石田方の軍使である長束正家の「和戦いずれかを訊こうか?早う返答せよ。わしは朝飯を食うておらぬ」の言葉に接して、開戦を決めます。
「2万の兵で押し寄せ、さんざんに脅しをかけた挙句、和戦いずれかを問うなどと申す。そのくせ降るに決まっておるとたかを括ってる。そんな者に降るのはいやじゃ」
長親はあごを引いて正家を見据えると、「坂東武者の槍の味、存分に味わわれよ」そう言い切った。【のぼうの城】
このあと、長大な堤防を築いた水攻めと、それに対しての忍城の武士・領民による籠城戦が戦われます。もちろん、この物語の戦いの経過や登場人物の行動はフィクションです。
ただし、忍城が石田三成の水攻めに耐え抜き、小田原が落城した後でやっと開城したという結末は史実です。
『のぼうの城』での成田長親の開戦の決意は、直前の長束正家の「それと、成田家には甲斐とか申す姫がおるな。それを殿下に差し出すよう」という言葉への反応ともとれます。
史実としても甲斐姫という美貌の姫(城主である成田氏長の娘、長親にとっては従弟の娘が存在しました。甲斐姫は忍城城主・成田氏長と上野・金山城の城主・由良成繁の娘との間にの子であり、外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、1584年に金山城が北条氏の軍勢に包囲された際、71歳という高齢で籠城戦を指揮した女傑であり、甲斐姫はその血を引いているのです。
甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」とされる一方、武芸や軍事に明るく「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評されてる「女坂東武者」です。
『のぼうの城』の中には、百姓の女房をレイプした男との対決シーンがあります。
(男は)しかし、そこは技術をもって扶持を与えられる加勢侍の端くれである。甲斐姫の気勢をみてとると、腹を決めて抜き打ちの体勢をとった。このとき、事態を知った家臣たちが集まり始めていたがだれも止める者がいなかったというから、甲斐姫の技量が周知のもので、かつ男がいかに家中のものから軽蔑されていたかがわかる。
「ぬるい」
甲斐姫は、男が身構えるや太刀を一閃し、刀の柄を握った小手を叩き斬った。さらにそのまま返す刀で頸を断ち斬った。斬ったが首は落ちない。甲斐姫が刀を鞘に収め、背を向けてからようやく首が胴から離れたというから並みの技量ではない。
忍城の開城後の実際の甲斐姫は、秀吉の側室になったようです。しかし、その強く豪気で、しかも可愛らしい女性としてのキャラクターは、さまざまな伝説を生み続けています。
のぼうの城の2万対5百ではありませんが、同じ戦国時代に十倍近い敵を相手にして、それを打ち破った名将がいます。小田原北条氏の3代目の北条氏康です。その戦いー河越野戦(かわごえよいくさ)は日本の合戦史上、桶狭間の戦い、厳島の戦いと並ぶ3大奇襲と言われています。
四面楚歌の状況に置かれた北条氏康は、まず武田晴信と今川義元に和解を申し入れ、駿河の領地を今川に返還することで、1554年11月に甲相駿三国同盟を成立させました。
小田原北条氏の3代目である北条氏康(1515~1571)は「相模の獅子」と称される猛将で、顔の向疵で有名です。
もともと小田原の北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏と区別する場合は、「後北条氏」)は、初代の伊勢新九郎盛時(北条早雲)が関東の混乱に乗じて、1495年に伊豆と駿河を領有したことから始まります。第2代の北条氏綱は、北条と改姓し、関東一円の支配を目標にして隣国に領土を広げました。武蔵・河越城(埼玉県・川越市)に進出したのは、1533年年です。
1541年に氏康が家督を継いだ時点で、北は武蔵南部、東は下総、西は駿河の富士川までの地域は、北条氏の支配下にありました。しかし、北関東は古河公方の足利晴氏、関東管領の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の3者が鼎立、さらに駿河の今川義元、甲斐の武田晴信、安房の里見義堯などの有力勢力が取り巻いていました。氏康の代にになると、機会をうかがっていた周囲の勢力は、互いに連携しながら北条を叩き潰しにかかりました。
1554年7月下旬、今川義元、武田晴信が駿河の北条の支城を攻撃し、北条方は三島まで退却しました。同年10月になると、山内と扇谷の両上杉連合軍が、河越城を包囲しました。
四面楚歌の状況に置かれた北条氏康は、まず武田晴信と今川義元に和解を申し入れ、駿河の領地を今川に返還することで、1554年11月に甲相駿三国同盟を成立させました。
河越城についても北条氏康は、足利晴氏に両上杉家との調停を依頼しましたが、なんと足利晴氏も両上杉方に加わってしまい、包囲勢力は8~9万人になります。
河越城には、北条氏康の義理の弟(妹婿)の北条綱成(つなしげ)が率いる3千人が立てこもり、なんと半年以上も籠城戦を続けました。綱成は豪勇の猛将で、その旗指物から「地黄八幡(ぢきはちまん)」と恐れられていました。
氏康は翌1555年4月に8千の軍勢で河越城近くに進出したものの、兵力は足利・上杉連合軍の約1/10です。綱成率いる籠城軍は兵糧も幾ばくもない状況です。
氏康はひたすら和議を提案し、籠城兵の命と引き換えに河越城はおろか江戸城の明渡しにも応ずるそぶりを見せます。条件交渉の使者が何回も往復し、連合軍側は北条氏康にはもはや戦意はないと油断してしまいます。
それを見計らって4月20日、氏康は山内上杉憲政の陣に乾坤一擲の夜襲を敢行しました。戦闘前には念入りな準備をしています。夜襲は2000人ずつの3隊に分け、音の出る鎧や兜を脱がせて将兵を身軽にさせ、自軍には目印に白のたすきを掛けさせ、合言葉を決め、敵の首は討ち捨てと厳命しました。
両上杉の陣は戦勝気分で酒盛りをして寝こんでいたため、忍び寄った氏康軍の襲撃に慌てふためいて総崩れになります。氏康軍は次に扇谷上杉朝定の陣にも襲い掛かり、上杉朝定を見事に討ち取ってしまいます。連合軍はアチコチで同士討ちを始めて自滅します。(この酒は、実は北条方の乱破[忍者]風魔小太郎が足利晴氏から差入れと偽って、両上杉のの陣にとどけたという逸話もあります。)
勝利を決定づけたのは、城門をひらいた籠城の綱成軍が、氏康の本隊に合流するのではなく、足利晴氏の陣にすぐさま突撃したことでした。このような対応ができたのは、綱成の実弟である福島勝広が単身河越城に潜入し、氏康の夜襲計画を前もって知らせておいたためです。足利晴氏も上杉憲政も命からがら遁走しました。
河越夜戦にさいしてはの氏康の次の言葉が伝えられています。
我聞く、戦の道は衆といえども必ず勝たず、寡といえども必ず敗れず、ただ士心の和と不和とにあるのみ、諺にいわく、小敵といえども侮るべからず、大敵といえども恐るべからず云ふ。我上杉と数度戦に及びけれども、いつも我一人にて敵十人に当たれり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決この一戦にあり。汝ら心を一にし、力をあわせ、ただ我向かふ所を視よ。【名将言行録】
この戦いで勝利したことにより、北条氏は関東支配の主導権を確保しました。
氏康は戦いで名将であっただけでなく、検地の徹底、税制改革、通貨統一、上下水道の整備など、内政の実務も精力的に行いました。
このような北条氏でしたが、1950年5代氏直のとき、秀吉の小田原攻めにあっては裏切りが続出、支城は次々陥落し、もろくも滅亡してしまったのです。原因は関東にばかり目を向けて天下を目指さないローカル勢力となってしまい、時代に出遅れたことにあるといわれます。
【注】足利幕府での「公方」とは幕府設置の鎌倉府の長官で関東を統治しました。本来は鎌倉に居る「鎌倉公方」なのですが、足利晴氏は鎌倉が危険とみて、現在の茨城県・古河を本拠としたので「古河公方」と呼ばれます。関東管領は公方の下で補佐する役目で、扇谷上杉家と山内上杉家が交代で務めていました。(この2つの家は鎌倉で目と鼻の先の近さにありました。)
この時代には、幕府の征夷大将軍と公方が対立、関東管領と公方が対立、両上杉家の争闘、公方が一時は複数存在するなど、関東の統治は乱れに乱れていたのです。