坂東武者とは?その系譜をたどる

第8回 幕末の坂東武者

幕末の剣術流派

剣術に限らず、いろいろな武術の流派が発生し始めたのは室町時代から戦国時代です。この頃には守護大名や戦国大名が現れ、彼らにとっては家来たちの武術の腕を鍛え、軍団を強化することが必須となったのです。

幕末期の剣術
幕末期の剣術

そうすると大名に自分を売り込んで指南役の地位を得ようとするいわゆる兵法者が出現し、兵法者やその門弟たちが「○○流」と称することで、自分たちの差別化を図ったのです。有名な兵法者としては、塚原卜伝、宮本武蔵、吉岡憲法、一刀流の伊藤一刀斎、新陰流の上泉伊勢守信綱などが居ます。

 

徳川幕府ができて戦国乱世が終わると、無外流の「剣禅一如」、柳生新陰流の「活人件」など、剣術と刀に高い精神性を求める傾向も現れました。

 

剣術の修行においては、危険な木刀を避けて、竹刀と防具が使われるようになりました。町人や農民でも安全に剣術を学ぶことができるようになり、剣術は武士の独占ではなくなりました。かつては命がけだった他流試合も、気軽に行われるようになりました。

江戸では1人の武士が複数の流派を学ぶこともでき、江戸詰の武士たちは藩が違っていても互いに交流し、切磋琢磨しあったのです。神道無念流の桂小五郎、北辰一刀流の坂本龍馬、鏡心明智流の武市半平太などは、幕末の志士として有名ですが、江戸ではそれぞれの流派の道場で塾頭を務めたほどの使い手でした。

多摩の天然理心流

同じ時期の剣術流派に天然理心流がありました。江戸に試衛館という道場がありましたがあまり門人は集まらず、実際は武蔵国・多摩郡(東京都・多摩地域とその周辺)に出稽古をして、剣術だけでなく柔術と棒術も教えていました。もちろん他の流派と同じく竹刀と防具の稽古もやりますが、強烈な気合を浴びせて相手をひるませ、そのままグイグイ突進する気組(きぐみ)が自慢の流派です。

近藤 勇
近藤 勇

形稽古には、本物の刀と同等の重さがある木刀を使って、実践的な稽古をしていたのです。

 

江戸時代の多摩は、ほとんどが天領(幕府直轄領)ですが、旗本領や諸藩の飛び地まで入り込んでおり、幕府役人の配置も少なかったために、農民は自己防衛を行うようになり、武術がさかんでした。天然理心流は、こうした環境から出現した流派です。門人には武士はほとんどいないため、田舎の若者に喧嘩のやり方を教えている流派であったともいえます。  

誠の旗
誠の旗

この試衛館の道場主の近藤勇、塾頭の沖田総司、土方歳三、井上源三郎(以上はもちろん天然理心流)と、食客として試衛館に居た永倉新八(神道無念流)、原田左之助(宝蔵院流槍術)、藤堂平助(北辰一刀流)、山南敬助(北辰一刀流)は、1863年 (文久3年)2月に、将軍家茂上洛警護のためとして幕府が募集した浪士隊に参加して上洛します。
天領育ちの近藤や土方、沖田らは徳川将軍家への帰属意識が強く、将軍警護となればまさしく彼らにとってはピッタリの活躍の場を得たのです。これが新選組の始まりです。


幕末の風雲が、新たな坂東武者の一団を京都に呼び込んだと言えます。無外流の使い手であった斉藤一も、京都で新選組に加わっています。

会津藩お預かりとなって京都の治安を担当した新選組は、坂東武者らしい猪突猛進で1868年(慶応4年)まで、尊王攘夷派の浪士取締りに目覚ましい活躍をします。しかし、その活躍はほんの僅かの間でした。15代将軍・徳川慶喜の大政奉還によって、新撰組のおかれた状況は一変します。

 



新選組、江戸へ戻る

鳥羽伏見の戦跡碑
鳥羽伏見の戦跡碑

大政奉還のあと、朝廷側のかなり過酷な要求に対しても、徳川慶喜は恭順を表明し続けました。しかし江戸では薩摩藩をバックに持つ尊王攘夷派が放火・掠奪・暴行を繰り返し、江戸警備の庄内藩が薩摩藩邸の焼き討ちで応じるなど、新政府側も旧幕府側も主戦派を抑えきれません。とうとう鳥羽伏見の戦いが起こります(慶応4年1月3日)。

 

新選組も会津藩とともにこの戦いに参戦します。(近藤勇はつい半月前に狙撃された傷が癒えず、沖田総司も病気のために戦いには参加していません。)新選組にも小銃が支給されていたのですが取り扱いが未熟、そのため刀槍による突撃に頼ることになり、150名中21名の戦死という大損害を被ります。開戦2日後の1月5日、新政府軍にいわゆる「錦の御旗」が翻ったのを見て、自らが朝敵となった知った旧幕府軍は動揺、戦意を喪失し、ついに潰走します。

1月6日夜、将軍慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平忠敬は、大阪城からひそかに脱出し、軍艦で江戸へ帰ってしまいました。慶喜は主戦派に担がれ朝敵の首魁になるのを避けて、あくまで恭順を貫くつもりだったようです。

新選組を江戸へ運んだ富士山丸
新選組を江戸へ運んだ富士山丸

旧幕府軍は戦闘をあきらめ、江戸へ向かいます。新撰組も旧幕府軍艦に分乗し、1月15日には品川に到着します。

 

江戸の土を踏んだ近藤勇、土方歳三は当然のことながら、坂東武者を徴募しての新撰組の戦力再建と、新政府軍への総反撃を構想しました。

 

土方歳三は次のように述懐したと伝えられます。
「これからの戦は、銃や大砲でなければだめだ。自分たちは剣と槍には自信があったがまったく役に立たなかった。」

土方は羽織と袴も脱ぎ捨て、西洋の軍服をまとい、髷(まげ)も切りました。隊士を、新式の小銃や大砲などで武装させ、翻訳されたオランダ歩兵操典を参考に訓練しようとしました。

 

甲陽鎮撫隊

2月12日、新選組には上野寛永寺に謹慎中の慶喜の警護が命じられます。謹慎の警護では新政府軍と戦えず、不本意な役目です。

 

しかし、2月28日には甲府城に入城、新政府軍を迎え撃つという新たな命令が下ります。鬱々としていた近藤、土方、さらに隊士たちも、欣喜雀躍しました。(実はこれは江戸城の無血開城を目指した勝海舟が、主戦派の新選組を追い払うための策動であったとされます。)

 

これにより新選組は甲陽鎮撫隊と改称します。近藤は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名乗ります。兵力の補強が急務であったため、浅草の顔役・矢島弾左衛門が集めた新兵を加え、大砲2門、小銃500挺、軍資金5000両を得て甲州へ進軍しました。また途中、近藤・土方の故郷の多摩で、春日隊という志願兵も加えます。総勢は約300名です。

しかし、新兵たちはたしかに坂東武者の後裔ではあっても、まったく戦場経験はありません。大砲や新式銃も初体験です。

勝沼の戦い
勝沼の戦い

もちろん永倉新八、原田左之助、斉藤一をはじめとする、京都以来の新選組の猛者連中は甲陽鎮撫隊に加わりました。(沖田総司も参加したが途中で脱落したとも伝えられます。)

 

新旧の隊士たちの交流を深めて指揮を鼓舞するため、行軍中は連日の酒宴を開きました。途中の多摩では故郷の人々のもてなしを受けたので、甲陽鎮撫隊の進軍は遅れ、甲府城は新政府軍に先に占拠されてしまいます。これを知った隊士に動揺がひろがります。近藤は、苦し紛れに「会津の援軍がくる」と隊士をだます嘘をつきます。土方は、菜葉隊(なっぱたい、神奈川警備の旧幕府軍)に応援を求めに出掛けますが無視されてしまいます。

 

ついに3月6日、まだ土方が神奈川から戻らないうちに、勝沼字柏尾(山梨県甲州市)で戦闘が始まります。新政府軍は兵も装備も質量ともに鎮撫隊を圧倒し、わずか半日で鎮撫隊は敗北、最後はバラバラになって江戸へ逃げ帰ります。坂東武者の反撃の最初の試みは、あっけなく潰えたのです。



近藤勇の出頭と流山脱出

五兵衛新田の金子家
五兵衛新田の金子家

かつての新選組は甲陽鎮撫隊の敗北を受けて分裂し、永倉新八と原田左之助は、近藤、土方とは別行動を取ることになります。そして3月13日夜には、近藤を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が土方に率いられて五兵衛新田(足立区西綾瀬)の名主である金子家にはいりました。

 

流山の新撰組本陣
流山の新撰組本陣

近藤と土方の目的は、新たな隊士を募集して会津に向かい、そこで抗戦を続けるためです。若い坂東武士を短期間で鍛え上げて戦力にすることに、まだまだ大きな期待を抱いていたのでしょう。
4月1日まで新たに隊士の徴募を行い、4月2日未明から午前中にかけ、総勢227名が流山(千葉県流山市)へ移動しました。流山では酒造家長岡屋や周辺寺院に宿泊したようです。しかし早くも翌4月3日には、新政府軍の先峰隊によって正体不明の部隊として発見されてしまいます。

戦闘や脱出の準備も整っていなかったため、近藤は大久保大和と名乗って新政府軍に出頭し、この隊は幕府公認の治安隊であると主張しました。土方が隊士を率いて会津にむかうための時間稼ぎをしたのです。

一方、流山に残っていた土方と隊士たちは4月6日、会津を目指して流山を脱出します。主要街道は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(千葉県我孫子市)から利根川を船で下り、銚子で船を乗り換えて潮来へ行き、そこから陸路で水戸街道へ抜けたとされています。

間もなく大久保大和は近藤勇であることが露見し、4月25日、近藤は板橋宿で処刑されてしまいます。武士らしい切腹さえ許されず、打ち首にされました。 

近藤がなぜ土方らをのこして自ら出頭したのか、いろいろな解釈ができ、今日では謎とされています。

 

土方らは、大鳥圭介の率いる旧幕府伝習隊とともに、宇都宮、日光、会津の母成峠と転戦します。その後、仙台で榎本武揚の旧幕府艦隊に合流し蝦夷地に向かい、慶応4年(1868年)12月15日、榎本を総裁とする函館政府を樹立します。

函館五稜郭
函館五稜郭

この前後に蝦夷地に向かった最後の坂東武士には、かつてペリー艦隊と応接した浦賀奉行所与力の中島三郎助、心形刀流の天才剣士といわれた伊庭八郎、仙台額兵隊の星恂太郎、彰義隊の渋沢成一郎などがいます。

 

武骨で愚直な坂東武士の敢闘精神が、彼らを蝦夷地まで駆り立てたのです。翌1869年(明治2年)5月の函館戦争で土方歳三が戦死し、函館政府は降伏、坂東武者の反撃の望みは絶たれました。新政府軍への降伏文書に新選組を代表して署名した相馬主計は、最後の新選組局長とされました。

 

函館戦争までの戊辰戦争では、命を投げ捨てた坂東武士もたくさんいましたが、生き残って国家や産業、家族のために働いた武士も多数いました。以て瞑すべし。